26冊目『美徳のよろめき』
上流階級の気品さを持った倉越節子婦人が青年、土屋との不倫関係になりその不倫の顛末をキレイな言葉で表現した小説。
まるで純愛小説のように錯覚してしまうのは三島由紀夫という作家の文章が洗練されて美しいからだろう。
またこの節子婦人は不倫という背徳行為をしているにも関わらずかなり無邪気な感じで不倫をしている人妻という感じがしない。
しかし節子婦人はそんな無邪気さを抱えながらも不倫というゴールがないように見える行為に次第に悩んでいく。
不倫行為そのものはまったく褒められた行為ではないが恋というものがどのようなものでそれが人にとってどのように精神的に作用するのかということそして実は恋をしている時はまだよくて恋から覚めてしまった時のほうが危険だということを説得力のある文章で語る例えば以下のように……。
ただ盲目的であるときはまだ救われ易い。本当に危険なのは、われわれが自分の盲目を意識しはじめて、それを盾に使いだす場合である。
p152より
自分が恋をしているということに自覚的ではない場合はその甘やかな恋にただ溺れられるけど、自分がそれに溺れているということを意識するようになったときが危険な姿なのだ。
では節子の場合どのような形でそれを盾に使うのか。
節子の考えは、この日頃、すべて自分の盲目を前提にして動いていた。自分は恋をしており、そのために盲目であって、・・・・・・その結果、何ものにも目をつぶる権利があるのだ、という風に。
それはもう確かなことだった。彼女が道のまんなかにある石につまずいて倒れたにしても、決して彼女が悪いのではなく、罪はただ恋だけにあるということは。 p152 より
恐ろしまでの自己正当化を行っているけどそうしなければ不倫なんかしてられないのかもしれない。