『麒麟がくる』の感想〜何度も語られてきた物語をどう語り直すか?
約一年の間、明智光秀の物語を観てきて、まずはその物語が終わったんだなと、余韻を引きずっています。
本来であれば、去年で物語が終わっているはずで、今年の大河ドラマ『青天を衝け』がスタートして、その物語に慣れてくるはずでした。
ですが皆さんもご存知のように、コロナ禍で今年の今日までずれ込んでしまうことになりました。
その影響は明らかにあって、放送も一時中断ということになりました。
そして、放送再開がされた後の物語展開は、合戦シーンをほとんどナレーションで進めるという形になり、しょうがないとはいえ、やっぱりそこが残念な部分でした。
コロナ禍前の撮影分の内容の感じからすると、合戦シーンもなかなか見応えのあるシーンがあった(桶狭間の戦いなど)ので本当にこれは残念でしたね。
コロナ禍の影響はこの辺にします。
そんなコロナ禍の影響で本当にいろいろ大変だった麒麟がくるですが、僕としてはなかなか面白く観れた大河ドラマでした。
大河ドラマは歴史物語なので、結末がわかってる物語というところがあります。
なので結末が、どうなるかという楽しみはほとんどなく、歴史物語をどう解釈してドラマに落とし込むかという方に楽しみがあります。
特に本能寺の変、坂本龍馬暗殺は、黒幕が誰かということで諸説出されているので、どの説を取るのかが大きな注目点になってると思います。
もちろん、時代考証が入るので、何もかも自由になるわけではありません、
なので最新の研究成果なども織り交ぜながら、物語を作るので想像の部分、解釈の部分が物語の面白さを左右すると言えます。
麒麟がくるは、この想像の部分、解釈の部分が今までの大河とは、かなり違いました。
織田信長は、愛されることを求め、その愛されたいという気持ちが原動力になってる人物として描き、羽柴秀吉は、裏のある一癖も二癖もある人物として描きました。
まず、織田信長ですが、今回の信長はかなり個人的な感情を原動力して動いてる人物として描いていました。
これは本当に新しい信長像を作ったと思います。
そして秀吉です。
織田信長の家臣時代の秀吉を怖い人物として描いたのは、これも新しい秀吉像だったと思います。
麒麟がくるは、そういうチャレンジにも取り組んでいましたが、僕の中で少し残念だったのが、主人公の明智光秀像に新しさが見えなかったところです。
真面目で実直、文化人でもある光秀は今までの大河でも、描かれてきた光秀像でした。
それこそ新しい解釈で、新しい光秀像を作れたのにという思いはあります。
なにわともあれ、これだけ大変な中無事完走出来たことを今は噛み締めたいです。