高校生だった僕が『国盗り物語』を読んで絶望したこと
光秀は、誰にも漏らせぬ信長への憤懣もお槇にだけは掻き口説くように訴えた。藤吉郎を大気者といい、自分を陰気者といった信長の言葉も、お槇に伝えた。
「筑州めは、例のあいつの人蕩しの一手で、中国十州を五、六年で奪うと言上しおった。信長にはそれが好いやつにみえるらしい。このおれが正直なことをいうと陰気、という。それほど大気者が好きなら、おれも筑州のやりざまで」
とまでいったとき、お槇はちょっと顔をあげた。この光秀が、その性格で筑前守のような手をやりだせば、どういう過誤を犯すかわからない。
「それだけはおやめなされませ。人はわが身の生まれついた性分々々で芸をしてゆくしか仕方がございませぬ」
p497ー498
このワンシーンは高校生だった僕の心に深く刻まれていた。
その理由は明智光秀のその性分が自分に重なって見えたことだった。
僕もどちらかと言えば陰気者の部類に入る人間でお槇の言葉に反発を覚えた。
何に反発したかというと「生まれついた性分々々で芸をしてゆくしか仕方がございませぬ」というセリフだった。
僕はこのときこれを読んで率直に思った。
結局のところ自分の性分で芸をしていったことが光秀を破滅させたのだと。
光秀の最後は木下藤吉郎に山崎の合戦で負け小栗栖という場所で土民の襲撃にあって落命するというものだった。
この結末を招いたのは光秀のその性分にあったと思えたのだ。
そしてその性分というのが陰気者であったことだった。
そうその性格、性分がそれを招いたと。
そしてそういう性格、性分を持った者の末路はこのような悲劇的なものか破滅なのではないかと。
だから僕はこれを読んだとき絶望した。
世の中は大気者のような性格を持ったものに対しては優しくそのような性格であればあるほど生きやすいと。
そして陰気者であればあるほど世の中では生きづらくその性格、性分のために苦労を強いられると。
だから例えそれが偽りの大気者であったとしてもそのようにするしかないのではないかと。
しかしそのように偽ることができればそれほど楽なことはないが結果的に上手く偽ることさえもできない。
だからどちらに転んでも絶望しかないと高校生だった僕はそう思ったのだ。