何者でもないから何者かになることが求められる
何者でもなくて良かったあの頃
就活をしていたあの頃、自分は何者でもなく何を一体アピールすれば良いか全くわからなかった。
自分にはなにもないし、そもそも働くということに対して全くリアリティがなかった。
そんな僕の就活はあまり順調といえるものではなかった。
もっと言ってしまうと就活という現象に対して紗に構えてバカバカしいとも思っていた。
そんな僕の態度は『何者』の主人公のようだった。
『何者』の主人公も就活に踊らされる就活生をどこか馬鹿にして主人公はまるで達観しているかのようだった。
その姿は一見すると冷静に事態を見ているようであり、本当のところはそれにただ真剣になれない姿なだけだとも言えた。
就活において何者かであることはあまり求められない。
就活で求められるのは何者かになる(ここは企業が求める人材になる)素養であり潜在能力であろう。
そうであるが故に青田買いなわけである。
むしろ余計な色が付いた何者かであることは就活生には邪魔なものなのあろう。
そうだからこそ僕は安心して就活という現象を紗に構えて見てられたしバカバカしいものとして見られたのだろう。
それは何者かであることを求められていないことに起因する。
何者であるかを問われる
僕が大学を卒業する年にやっていたドラマで『遅咲きのヒマワリ~ボクの人生、リニューアル~』というものがある。
このドラマは30手前の主人公が職を失いたまたま募集していた地域おこし協力隊の募集に応募して田舎の地域おこし協力隊として働き田舎の人や地元の若者と接する中で人生を見つめ直す再生の物語である。
このドラマを見た時の僕はまだ30手前ではなかったが30手前のギリギリ若者といえる人間の立つ現実をまざまざと見せられて、30手前っていうのはこんな感じなのかと漠然と思ったことを記憶している。
このドラマで主人公が30手前の年齢でいつまでも夢みたいなこと言ってるなみたいなことを言われるシーンがあった。
そうそれ相応の年齢になったらそれ相応の考え方をしてそれ相応の人生プランを持つ。
そういうことが求められる年齢に僕もなった。
そんな僕は転職活動をした。
まさにもう夢のようなことは言えない年齢になったということを痛感する。
キャリアチェンジするにあたって僕の年齢はありとあらゆるところでギリギリの年齢だと言われた。
それは年齢が高くなるにつれて経験を求められるということであり、経験がないことに取り組むには年齢的な制約があるということでもあった。
僕は思った。
人間は必ずしも上手く生きれるわけでもないし一直線キャリアを歩めるわけでもない。
なら全く違う仕事に挑戦したっていいじゃないかと。
それをもっと暖かく見てくれよと。
しかしこんな理屈(屁理屈?)は世間には通用しない。
それはあくまでもこっち側の言い分であって向こう側には向こう側の理屈があるわけである。
ここで出てくるのも社会人として(どのような仕事であっても)仕事の中で培ってきたものは何か、あなたは何ができるかということが問われる。
そう僕の年齢はもう何者でもないということが許されなくなる年齢でもあった。
ある人に「どんな30歳になりたい?」と聞かれた。
僕はその時答えに詰まった。
社会人としてどういうふうになりたいというキャリアプラン的なものがまるで存在しないというところに起因している気がした。
それがないが故に答えに詰まった気がした。