内向的な、あまりにも内向的な

内向的な性格な僕の思考

個人が個人を監視する時代へ

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 独裁国家によって洗脳と監視が行われた世界を描いてみせた『1984年』という小説がある。

 

 

この小説の中ではビックブラザーという党によって独裁政治が行われていて、その独裁政治を支える道具としてテレスクリーンという双方向テレビが出てくる。

 

これは党の宣伝(洗脳)を流すことができるものとしても使えまた人々を監視するものとしても使用される。

 

 

小説を読んでいけばわかるが、本書はこの党による宣伝(洗脳)と監視が張り巡らされたなんとも息苦しい世界を見事に描いている。

 

ジョージ・オーウェルが描いてみせた国家による人々への宣伝(洗脳)と監視という問題は現在でも警戒しなければいけないことではあるが、それについてはまた別の機会に書くとして今回の主題に入ろうと思う。

 

 

ジョージ・オーウェルが描いてみせた世界ではこの宣伝(洗脳)と監視は国家が独占しているものだった。

 

ここでは一方的に人々が国家に監視される対象として扱われていて人々の無力さを感じさせるものになっている。

 

監視される対象の人々はただ単に監視される対象であり国家にとって都合よく使われる存在でもある。

 

この世界では人々という存在は客体として存在しているに過ぎない。

 

しかしオーウェルが描いてみせた監視社会とその危険性は常に国家だけがどそれを行う存在なのかそこには疑問がある。

 

現代社会を見てみるとオーウェルが描いたような監視される対象としての側面だけではなく、監視する側にもなっていることに気づく。

 

それを可能にしているのがSNSなどのツールだろう。

 

SNSなどのツールを使った個人の監視ということであれば今、映画が公開されている小説『スマホを落としただけなのに』なんかがその恐ろしさを存分に語っている。

 

この小説ではハッカーがある女性に興味を持ちその女性の行動を監視していくさまが描かれ警察さえもその技術力でかく乱する。

 

そこで出てくる個人はもはや客体としての個人ではなくむしろ国家権力の象徴たる警察さえもかく乱することができる存在として浮かび上がる。

 

そしてオーウェルが危惧したであろう監視社会はオーウェルが想像したものとは違った形で進んでいるのではないかと思える。

 

それは個人が個人を監視できる社会の誕生ということだ。

 

この個人が個人を監視できる社会の誕生の特徴は監視される対象が一方的に監視されるということを意味しない。

 

監視される対象は監視する対象にもなり得る。

 

つまり主体が客体にもなり得るし客体が主体にもなり得るということだ。

 

この認識がないままにSNS等のツールを使うとどうなるか。

 

自分の個人情報をキチンとコントロールせずどんどん個人情報をネットに晒してしまう。

 

ただSNSにはそもそも自らの個人情報を発信したくなる仕掛けがあるといってもいい。

 

それが他者からの反応(いいね!など)である。

 

個人が個人を監視することが容易になった時代において自らの個人情報をコントロールすることがより重要になっていると思う。