内向的な、あまりにも内向的な

内向的な性格な僕の思考

書評 3冊目 『悪意の手記』

 

悪意の手記 (新潮文庫)

悪意の手記 (新潮文庫)

 

著者紹介

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

中村/文則
1977年愛知県生まれ。福島大学行政社会学部卒業。2002年「銃」で、第34回新潮新人賞受賞、第128回芥川賞候補となる。2003年「遮光」で第129回芥川賞候補、2004年第26回野間文芸新人賞受賞。2005年「悪意の手記」で第18回三島賞候補となる。「土の中の子供」で第133回芥川賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 あらすじ

 

内容(「BOOK」データベースより)

「なぜ人間は人間を殺すとあんなにも動揺するのか、動揺しない人間と動揺する人間の違いはどこにあるのか、どうして殺人の感触はああもからみつくようにいつまでも残るのか」―死への恐怖、悪意と暴力、殺人の誘惑。ふとした迷いから人を殺した現代の青年の実感を、精緻な文体で伝え、究極のテーマに正面から立ち向かう、新・芥川賞作家の野心作。

 

中村文則という作家の作風

 まず言えることは著者中村文則の作風は読み手を選ぶ作風ということだ。

彼の作品には必ずと言っていいほど暴力とセックスが描かれ尚且つ陰鬱な展開、話が多い。(今まで読んだ中村文則作品はすべてこの要素があった)

このため暴力、セックス、陰鬱という要素が嫌いな人には中村文則の作品は合わないと断言していい。

そして中村文則という作家の作品には二つの系統があると思っている。

それは純文学よりの作品の系統とエンターテイメントよりの系統である。

前者の系統に入る作品は私が読んだ中では『遮光』、『迷宮』、『最後の命』そして今回書評する『悪意の手記』だ。

後者の作品の系統に属するのはこれも私が読んだ中の作品で言及すると『掏摸(スリ)』、『王国』、『去年の冬、君と別れ』、『教団X』だ。

ちなみに『教団X』に関しては本ブログで取り上げた記事が下記。

 

tukasa131.hatenablog.com

この本紹介の際には言及していなかったがこの『教団X』も先ほど言及した点とは違った点で読み手を選ぶ作品になっている。

それはこの『教団X』には中村文則という作家の政治的スタンスが作品の中で露骨に出ているからだ。

ただ僕が思うに『教団X』はそれこそ政治的スタンスの違う人が読むべき本だとは思うが……。

ともかく中村文則という作家の作品系統には二つの系統があり本作『悪意の手記』は前者の純文学よりの作品の系統 にあたるといえる。

 

本作の主題

 本作の主題は殺人という罪を犯した青年の心の葛藤ということになるかと思うが、そのような側面よりも生きるということに実感を持てなくなった人間はどのように生きればいいか?ということに主題があるように思える。

 

本作の構成

 本作の構成は『悪意の手記』というタイトル通り全編に渡って主人公の手記という形をとっている。

そしてこの手記は三部構成になっていてそれぞれ「手記1」、「手記2」、「手記3」となっている。

 

 難病からの生還から生の虚無へ

 この話の根幹を成すのが難病に冒さて死ぬことがほぼ確定的だった主人公が生そのものを憎悪するようになるが、奇跡的に難病が治りそれでも生そのものへの憎悪や虚無感が消えないというくだり。

ここのくだりだがどうしても治ったのにそういうのが残り続ける?という疑問が拭うことが出来なかった。

そしてそこからさらに親友を殺害してしまうという飛躍につながるというところにもどうしても無理を感じてしまった。

そのため自分的には「手記1」が最も納得感がないと思った。

 死ぬことが決まっているような状況から生還出来たのなら主人公の年齢(15歳)ということからも生きることの虚無感や生そのものへの憎悪ということにはならず、むしろ生きれて良かったと思うのが普通な気がした。

 

翔子という存在

 「手記2」では翔子という女性が登場する。この女性は主人公に一時的な安らぎをもたらす存在で個人的には本作の中で一番好きなキャラクターである。

翔子は健気という言葉が似合う女性で主人公のことをとても心配している。

主人公が何かを抱えているということに気づきながら寄り添おうとして、自殺未遂をした時も死ななくて良かったと安堵している。

正直なことを言えばこんな女性が身近にいればそれだけで幸せと感じれるのでがないかと思った。

そしてこの翔子という存在はたぶん男ならこんな女性が身近にいてほしいなという願望を具現化したような存在だろう。(ただし後半で翔子がただ健気な存在だということだけではなさそうだという事実が発覚してそれは僕的にが主人公よりも驚きガッカリ感を持ってしまった)

 翔子というキャラクターは誰かに似ているなと思ったら東野圭吾の『幻夜』に出てくる有子だった。この有子も『幻夜』の主人公、水原雅也にとって一時的な安らぎを与えてくれた存在であった。

しかし『幻夜』の雅也も本作の主人公もそんな存在には背を向けてより一層暗いところに落ちてしまう。

 

わりとの普通の倫理感を持った人間を主人公にした意味

 主人公は異常な犯罪者としては描かれていない。自分のしたことに対して罪の意識を感じながら生きている。しかし利己的な部分もあるわけでその部分が彼がその罪を認めて償わずそのままにしているという態度につながっている。

 そういう人間の黒でもなく白でもない感情の揺れ動きを描くことでなぜ人を殺してはいけないか?という大変難しい問題を自分のこととして考えさせることに成功している。これがサイコパス的な人物だったらこのなぜ人を殺してはいけいないか?という問いにリアリティがなかっただろう。

 

まとめ

 なぜ人を殺してはいけないか?人を殺した人間にとって罪を償うということはどういうことなのか?罪を犯した人間は更生することは許されないのか?そして生きることに実感を持てなくなった人間の姿や生きることに実感を持てなくなった人間はどう生きればいいか?という問いを考えることが出来る作品と言える。