2019年面白かった本
今年も今日で終わりですが、2019年の面白かった本ベスト5を紹介致します。
5位 詩的私的ジャック
森博嗣のS &Mシリーズ。
本編の内容よりも主人公、犀川創平の男女平等に関する問いかけが面白かった。
4位 決め方の論理
完全な民主主義は実現不可能だと証明したアローの不可能性定理はなかなか刺激的だった。
アローの不可能性定理は相当難解だそうでアロー自身が不可能性定理を説明するのに用いた事例が間違っていたというほどのもの。
3位 お姫様とジェンダー
眠れる森の美女、白雪姫などのディズニーアニメーションの物語にある女性差別的な側面をジェンダー論を使って読み解いていく。
2位 蜜蜂と遠雷
音として表現する音楽を文学表現に落とし込んだ傑作小説
1位 女神
表題作『女神』にハマってしまいこちらが今年一位です。
三島の美意識、耽美主義を最大限に表出した作品。
映画 『蜜蜂と遠雷』感想(ネタバレも含みます)
映画『蜜蜂と遠雷』を観て来ましたので感想を書きたいと思います。
小説の書評については下記記事
映画との距離感
感想の前にまず僕が映画をどれくらい観るかという話をしたいと思います。僕は映画をほとんど観ません。一年に一回映画館で観るか観ないかというぐらいです。なので映画的文脈を知らない人間です。
原作と映画の差異
今回の感想は原作を読んだ上で、映画版ではどうかという視点から感想を述べていきます。まず僕はピアノコンクール、クラッシック音楽に関わる者の群像劇と原作を評しました。そしてその原作をどのように映画にしていくのかということに関してはかなり興味がありました。
原作はかなりの大著だしそれをそのまま映画化するのは難しいと思えたからです。そして何よりも難しいと思えたのは原作で出てくる登場人物が奏でる演奏を文学的に表現したところです。僕としてはこの部分をどう表現するのかというところに着目しながら映画を観ていました。
原作では先程も述べたように群像劇として描かれていたところを、映画では消えた天才少女だった栄伝亜矢という登場人物の復活劇という側面で描いていきます。ここは映画化するにあたって妥当な変更点だったと思います。
なぜなら原作が持っている群像劇感をそのままやると映画の尺では足らないと思うからです。ただ個人的に残念だったのが、映画化するにあたって栄伝亜矢の復活劇を描くためか栄伝亜矢の性格が原作と少し違っている点でした。
映画の栄伝亜矢はピアノ演奏に対する迷いをかなり強調しています。これは栄伝亜矢の復活劇をより際立たせるための手法だと思うのですが、原作から入った僕はどうしてもこの栄伝亜矢の描きかたが少し残念でした。
原作の栄伝亜矢はピアノ演奏に対する迷いや音楽に対する迷いというものを持っていたましたが、それだけではありませんでした。むしろそれよりも音楽に対する無邪気さの方が優っているそんな性格でした。
その性格のためか友達の奏(今回の映画には登場しない人物)も心配するほど出場する他のコンテスタントの演奏を楽しんでいたりします。原作ではそういう無邪気さがある意味、風間塵とも通じるような規格外の天才というところに繋がっていると思います。
そしてこの部分の変更がある意味、風間塵のこの映画における重要度の低さに繋がってしまっているように思えます。栄伝亜矢の復活劇を中心に描くなら原作のように栄伝亜矢がどれだけ風間塵の影響を受けて演奏が進化していったかという視点で描くべきだったのかなと思ってしまいました。
残念ながら映画では風間塵は栄伝亜矢に影響を与えた人物のひとりになってしまっています。しかし原作のキモの一つは栄伝亜矢が風間塵の演奏を聴きそれに触発されて演奏をより進化させていくところにありました。
そしてそのキモこそが映画の冒頭でも出てくる風間塵の推薦状を書いたホフマンの言う風間はギフトだというところに繋がるのですが、そこがどうしても映画では主要登場人物のひとりとして描かれてしまったためか、そこがわかりづらくなってしまっています。
その代わりなのか原作よりも映画では明石の役割を大きくしています。原作、映画どちらの明石も生活者の音楽家という視点を持った存在です。この生活者の音楽家を目指す明石が栄伝亜矢に与えた影響は映画の中では風間塵よりも大きくなっています。
ここは勝手な邪推ですが、たぶん明石の比重を風間塵より大きくしたのは演技力に定評がある松坂桃李さんが演じるということでその役割は松坂桃李さんに任せたということだったような気がします。
風間塵役の鈴鹿央士さんは今作がデビュー作になる新人さんのため原作のように栄伝亜矢に大きな影響を与える役割を担わせることが難しいと判断したからこのバランスになったのかな思いました。
明石と言えば原作でも登場する明石の友達でTV記者の雅美のことについても触れます。原作での雅美は明石に対して微妙な距離感を持っていた気がします。この微妙な距離感というのは雅美がまだ明石のことを好きであるというところから出てくる微妙な距離感というか雰囲気だったのですが、残念ながらブルゾン・ちえみがこの雅美役で明石との関係はただの幼馴染的なものなってしまい、その微妙な距離感が出ていませんでした。(まあ細かいことと言えば細かいことなのですが)
原作を先に読むか後に読むか
割とここまで批判的なことを言いましたが、このような感想を持った一つの原因は原作を先に読んだことによって生じていると思っています。原作から映画はこう変えたということばかりが気になり、どうも映画自体に集中しているとは思えませんでした。
原作と映画の相違点や共通点を探しながら観るのも一つの楽しみ方ではありますが、原作という先入観が邪魔をして映画そのものを楽しめてないという気もしました。
一回目観た時は栄伝亜矢の性格改変が気になり、もともと重要視していた原作オリジナルの楽曲『春と修羅』をどのように音楽的に表現するのかということをキチンと観れていませんでした。そのため二回目観た時にその点をちゃんと観るため原作の『春と修羅』の箇所を読み直して観ました。
そのようにして二回目を観てみるとそれぞれの『春と修羅』が原作通りに再現されていました、特に風間塵の演奏がまさしく『春と修羅』を体現しているというところなど。
役者さんは皆はまり役
どの登場人物も役者さん(ブルゾン・ちえみ以外)ははまり役だったと思います。審査員のひとり三枝子役の斉藤由貴は三枝子のアバズレ感とかがパンツ事件のせいなのかどうかはわからないですが、役にピッタリだったし、マサル役の森崎ウィンはまさにジェラート王子という感じで風間塵約の鈴鹿央士さんも無邪気な天才というところを自然体で演じていました。
もちろん明石役の松坂桃李さんも役に合っていました。そして何よりも役柄にはまっていたのは栄伝亜矢役の松岡茉優さんです。
本編が始まる前にこれから公開される映画の予告をやっていますが、その映画の予告の中に『ひとよ』という映画がありました。この映画にも松岡茉優さんは出演しているのですが、栄伝亜矢役をやった人とは思えないくらい違う人でした。本当にいろんな役をやれる役者さんなんだと思い頑張ってほしいと思いました。
最後に
原作との違いというところを強調した感想になってしまい割と批判的に書いてしまいましたが、映画は面白かったです。何が面白かった何が良かったのかと言えばとにかく松岡茉優です。これに尽きる映画だと思います。
書評 6冊目 『蜜蜂と遠雷』
著者紹介
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
恩田/陸
1964年、宮城県生まれ。92年『六番目の小夜子』でデビュー。2005年『夜のピクニック』で第26回吉川英治文学新人賞および第2回本屋大賞を受賞。06年『ユージニア』で第59回日本推理作家協会賞を受賞。07年『中庭の出来事』で第20回山本周五郎賞を受賞。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
あらすじ
内容紹介
俺はまだ、神に愛されているだろうか?
ピアノコンクールを舞台に、人間の才能と運命、そして音楽を描き切った青春群像小説。
著者渾身、文句なしの最高傑作!
3年ごとに開催される芳ヶ江国際ピアノコンクール。「ここを制した者は世界最高峰のS国際ピアノコンクールで優勝する」ジンクスがあり近年、覇者である新たな才能の出現は音楽界の事件となっていた。養蜂家の父とともに各地を転々とし自宅にピアノを持たない少年・風間塵15歳。かつて天才少女として国内外のジュニアコンクールを制覇しCDデビューもしながら13歳のときの母の突然の死去以来、長らくピアノが弾けなかった栄伝亜夜20歳。音大出身だが今は楽器店勤務のサラリーマンでコンクール年齢制限ギリギリの高島明石28歳。完璧な演奏技術と音楽性で優勝候補と目される名門ジュリアード音楽院のマサル・C・レヴィ=アナトール19歳。彼ら以外にも数多の天才たちが繰り広げる競争という名の自らとの闘い。第1次から3次予選そして本選を勝ち抜き優勝するのは誰なのか?
初めに
今回書評させて頂く本は『蜜蜂と遠雷』です。実は昨日の深夜回で本作原作の映画を観て来ました。映画の批評的なものについてはまた別に書きたいと思います。
著者の恩田陸さんの小説は今作『蜜蜂と遠雷』とを含めて2冊読んでいて、一冊目は『夜のピクニック』でした。
ただ読んだのが相当前なため内容もおぼろげで恩田さんの作風とかも、どんなものかはもちろん語ることが出来ない程度にしか恩田作品には触れていないという感じになります。
クラッシック音楽に関わる者たちの群像劇
『蜜蜂と遠雷』という小説にキャッチコピーを付けるなら、あらすじ紹介で引用したような青春群像小説とするのが商業的に正しいと思うのですが、この大著は若い人たちの群像小説という範囲を超えたもっと幅広い人々の群像小説という印象を受けました。
なので僕はこの小説にキャッチコピーを付けるならクラッシック音楽に関わる者たちの群像劇と付けたいと思います。
多くの登場人物が出てくる
主要登場人物はあらすじにもあるようにピアノコンクールに参加する男女4人でありますが、その他の登場人物の視点からも描いていてこのピアノコンクールという一つの舞台装置を臨場感あるものにしていると思います。
具体的に言えば、このピアノコンクールの審査員の視点や裏方のピアノ調律師の視点などそれぞれの視点でピアノコンクールというものを語らせていて本作を読んでいるとまるで自分もこのピアノコンクールに参加している観ている気分になります。
小説で音楽を表現すること
やっぱり本作を面白いと感じれるか感じれないかは本来、文章で表現することが難しい音楽という非言語表現をどのように説得力を持って表現出来ているかというところにあると思います。
そしてそれは僕には説得力のある表現でした。何よりも本来メロディーとして表現するものを各演奏者がどのように表現しているかということを、その各演奏者のイメージを情景描写、比喩表現で現していることで読み手にそのメロディーを情景としてイメージさせています。
これは率直にいってすごいなと思いましたし、これは確かに映像化不可能というのもわかるし、そして何より著者が言うように『小説にしか出来ないことをやろうと思った』ということも頷けます。
規格外の天才、正統的な天才
本作を読んで天才には2種類の天才がいるのではないかと思えました。それは規格外の天才と正統的な天才です。規格外の天才はありとあらゆる文脈から外れることが出来て一種の破壊者的な存在でもあるそんな天才です。
本作ではそのような天才として風間塵という少年が出来て来ます。そしてもう一つの天才の型である正統的な天才というのは逆に文脈というのをよくわかっていて、それを上手くそして巧みに表現出来る天才です。本作ではマサルがそれに該当するのではないかと思います。
成長物語として
そして本作の一つのキモは何と言ってもこのタイプの違う天才たちがお互いに高め合い成長していくさまがよく描かれ、その対比もよく描かれているというところにあると思います。
この成長というところで言えば、本作の主要登場人物のひとりである栄伝亜矢の目覚しい成長が読みどころです。この栄伝亜矢という登場人物はあらすじにもあるように、ピアノ演奏にトラウマがあるという人物でそのトラウマの克服や自分の音楽性を取り戻していくということが一つのキモになっています。
最後に
またまとまりのない書評になってしまいましたが、本作は本当にオススメですし、僕の中では今年ベスト3に入るのではないかという作品です。そして最後になりますが久々にもっと読んでいたい、この話が終わらないで欲しいと思える作品でした。恩田さんありがとうございました。そしてまた次の書評でお会いしましょう。
書評 5冊目『汚れた赤を恋と呼ぶんだ』
著者紹介
『いなくなれ、群青』書評参照
あらすじ
内容(「BOOK」データベースより)
七草は引き算の魔女を知っていますか―。夏休みの終わり、真辺由宇と運命的な再会を果たした僕は、彼女からのメールをきっかけに、魔女の噂を追い始める。高校生と、魔女?ありえない組み合わせは、しかし確かな実感を伴って、僕と真辺の関係を侵食していく。一方、その渦中に現れた謎の少女・安達。現実世界における事件の真相が、いま明かされる。心を穿つ青春ミステリ、第3弾。
今作の位置づけ
前回の書評から少し日にちが経ってしまいましたが、階段島シリーズ第3弾を書評していきたいと思います。
まずはこれまでの階段島シリーズを振り返りながら今作は今までのシリーズの中でどのような位置づけなのかを話していきたいと思います。
第一弾の『いなくなれ、群青』は本シリーズの核となる階段島のなぞとその階段島になぜ人々が来てしまったのかということをメインテーマに据えた作品だと言えます。
個人的にはこの階段島のなぞがこの第一弾である程度判明してしまったのがどうなのかな?と思っていたのですがそれでも階段島という特殊な環境にも関わらず、それを受け入れて生活している者(主人公の一人、七草)と来たばかりでしかも納得できないことは絶対に納得しないし正しくないものは正しくないと絶対的な正義を振りかざす真辺由宇との対比で語られる物語はそれなりに面白く読めました。
第二弾の『その白さえ嘘だとしても』は階段島の核となる真相が前作である程度明らかにされる中でどのように物語を引っ張っていくのかということが重要なかと思い読んでみましたが、やっぱり物語としてちょっと弱いなという印象を受けました。
ただ多視点で語られる物語は前作の『いなくなれ、群青』で紹介程度に出てきた登場人物たちの背景や考えを知れるという意味で群像劇としての機能を持っていたと思います。
そんな第一弾、第二弾を踏まえて今作の位置づけを語るとするなら今作は第二弾の続きというよりも第一弾では語られなかった部分と第一弾、第二弾で進行している階段島の時間の流れとは別に進行してる現実世界での時間の流れが語られているという感じになります。
現実世界と階段島の世界
先ほども述べたように第一弾、第二弾では階段島での時間軸で話が展開されていました。その中で本作は現実世界での時間軸で話が展開されるので、シリーズがもともと持っていた平行世界感が今作でより鮮明になっていると思います。
平行世界なので現実世界と階段島の世界と同じ人物がふたりいることになります。そして今作は現実世界を中心に描いているので、より元々同じ人格だった者がそれぞれの世界で生活する中で受ける変化をどう描いていくのか違いをどう出していくのかというところがポイントになってくるのではないかと思います。
ただしこの階段島シリーズのコンセプトとして別世界(階段島)のもうひとりの自分はただのもうひとりの自分ではないという点を考えるとよりその部分を上手く表現出来ているのかというふうにハードルが上がっていきます。
ではその点でどうだったのかというとこれはもうネタバレに等しいのでぼかして言いますが、正直そんなに違いが感じられなかったかなという気がしました。
この辺はネタバレになるのでちょっと具体的には言えないのですが、現実世界の七草も階段島世界の七草もそこまで性格に違いがあるようには思えなかったのです。まあこの辺は感覚の違いが大きいと思いますが……。
今作のキーマン安達
今作から安達という人物が登場します。この安達という人物はなかなかつかみどころのない人物でたぶん今まで出てきた登場人物の中で一番、ぼやけた人物像だと思います。ただ階段島シリーズが後半に差し掛かる中で、こういう謎な人物が出てくることは
物語を引っ張っていく力になるのでなかなかいいと思います。そしてこの安達という人物は今作の中でも七草をかき乱す存在として活躍をしていてラストシーンを読むと後半の階段島シリーズでも活躍が期待できる人物です。
今作の主題は……
階段島シリーズの特徴としてプロローグにそれぞれの作品が今回はどういう話を展開するのかということを述べていくということがあるのですが、今作のプロローグを読むと現実世界の七草が、思春期の過程で起こる変化に対してそれを受け入れていくという話だと思いました。
子供の頃の純粋さというものを子供の頃のまま持つことは出来ず、だれもがどこかでその純粋さを捨てていくという過程を経ていくと思います。
それを喪失と見るか新たな出発と見るかで違いがあるかもしれませんが、でも変化しているそのままではいられないということを今作では描いているのではないかと思います。
最後に
いつもなんだかまとまりのない書評を(書評と言っていいかも怪しいですが)してしまっていますが、他の人の書評なんかも参考にしながら書評のレベルを上げていきたいと思っています。
また今作では第一弾、第二弾で出てきたあの人が現実世界でも登場するのでそこもチャックして頂くと面白いかと思います。
ではまた6冊目でお会いしましょう。
書評をする際の評価基準について
最近、このブログで週一くらいのペースで書評をするようになりました。
4冊ほど書評を書いたところで、僕がどのような基準で書評を書いているかということを一度書いておく必要があるのではないかと思いこの記事を書いています。
まず大前提としてどうしても好悪の問題は避けられないと思っています。
自分の価値観と照らし合わせてその本のことが好きか嫌いかということです。
やっぱり人間なのでそこはあります。
そしてそこについては素直に書いていこうと思っています。
ただ単に好きだ嫌いだということ言うだけではなく、なぜ好きなのかなぜ嫌いなのかという理由についてはキチンと書こうと思っています。
本を評価するのにその本のことだけではなく、今まで著者が他の本を書いている場合にはなるべく著者の他の本との比較や作家性みたいなものにも言及しようと思っています。また同じジャンルの他の著者との比較などにも言及するつもりです。
フィクションでは物語の構成、ノンフィクションでは主題をどのように論証しているか論証の仕方について言及します。
ノンフィクションでは基本的にネタバレはしないように(する場合はそのことについて言及)します。
一応、現時点での評価基準はこんなところです。
なんかあんまり上手く書けませんでしたが……。
書評 4冊目 『その白さえ嘘だとしても』
著者紹介
『いなくなれ、群青』書評を参照
あらすじ
内容(「BOOK」データベースより)
『いなくなれ、群青』の補足書評
階段島シリーズがシリーズとしてどのような構造なのかわからなかった中で書評した『いなくなれ、群青』に関して今回書評する階段島シリーズ第二弾を読んだ上であらためて補足の書評を付け加えます。
まずこの階段島シリーズというものはそれぞれの話に連続性があり、それこそどれから読んでもよい東野圭吾のガリレオシリーズとは違いシリーズ全体としてどうかというところを評価しないといけないということです。
その観点から『いなくなれ、群青』を評するとやはりシリーズ第一弾としての話の引きの強さ、読ませる話作りというところがどうしても弱い印象を受けました。
捨てられた人々の島としての階段島という設定そのものはとても良いのですが、捨てられた人々がわりとそのことを簡単に受け入れて生活しているという印象を受けたため、その設定に切迫感というものが感じられない話になってしまったのかなという印象を受けました。
切迫感のなさがもったいない
そしてこの切迫感の感じられなさという点が今回の『その白さえ嘘だとしても』にも見られる点かなと思います。あらすじにも書いてありますが、今回の話(ハッカーによってインターネットが使用出来なくなり物流の危うさが露呈するというくだり)は本来であれば階段島という設定そのものが持つ危うさによって、そこで生活している人々の生活が脅かされるという話になると思うのですが、なぜかあまりこの話を掘り下げることなく違う話(正直、どうでもいいと思ってしまうような)がメインになってしまってこれは残念かなと思いました。
そのためこの第二弾も階段島という設定があまり活かされていないという結果になってしまっています。
多視点という構造
今回の第二弾は前回が七草の視点だけで物語られていたのに対して前回は紹介程度の扱いだったサブキャラの視点からも物語られ多視点の構造をとっています。その点は良かったなと思います。前回出てきたキャラからも七草や真辺由宇の印象を語らせることでこのふたりの主人公の人間性を客観的に把握することが出来たし、それそれのサブキャラも前回より掘り下げられています。
七草という存在
今回の話はあるサブキャラがメインになっている話ではあるのですが、そのことは正直どうでもよくて(先ほど述べた正直どうでもいい話に関わるキャラ)やはり前回の主人公で今回の主人公のひとりである七草という人物の印象が前回と違ってみえるというところが印象に残りました。
前回では七草という登場人物は階段島の生活を受け入れていて、新しくこの島に来た真辺由宇がこの島の生活にもたらす変化を嫌い変化を好まない受け身な人物という印象でしたが今回はその印象が変わります。
今回の話で七草に受けた印象は受け身な人物に見えて実は策士というものでした。この七草という主人公の印象の変化は冒頭で言及したような読ませるなにを辛うじて保っていると思います、
階段島シリーズは七草を語るのか?
2作読み終えて言えることはこの階段島シリーズは一見すると階段島という設定や真辺由宇という存在に引っ張られる感がありますが、実はこのシリーズ全体を通して七草という登場人物の変化や人間性を描く作品なのではないかということです。この読みが当たっているかどうかは続く残りシリーズ4作を読んだ上でまた言及します。
書評 3冊目 『悪意の手記』
著者紹介
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
中村/文則
1977年愛知県生まれ。福島大学行政社会学部卒業。2002年「銃」で、第34回新潮新人賞受賞、第128回芥川賞候補となる。2003年「遮光」で第129回芥川賞候補、2004年第26回野間文芸新人賞受賞。2005年「悪意の手記」で第18回三島賞候補となる。「土の中の子供」で第133回芥川賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
あらすじ
内容(「BOOK」データベースより)
「なぜ人間は人間を殺すとあんなにも動揺するのか、動揺しない人間と動揺する人間の違いはどこにあるのか、どうして殺人の感触はああもからみつくようにいつまでも残るのか」―死への恐怖、悪意と暴力、殺人の誘惑。ふとした迷いから人を殺した現代の青年の実感を、精緻な文体で伝え、究極のテーマに正面から立ち向かう、新・芥川賞作家の野心作。
中村文則という作家の作風
まず言えることは著者中村文則の作風は読み手を選ぶ作風ということだ。
彼の作品には必ずと言っていいほど暴力とセックスが描かれ尚且つ陰鬱な展開、話が多い。(今まで読んだ中村文則作品はすべてこの要素があった)
このため暴力、セックス、陰鬱という要素が嫌いな人には中村文則の作品は合わないと断言していい。
そして中村文則という作家の作品には二つの系統があると思っている。
それは純文学よりの作品の系統とエンターテイメントよりの系統である。
前者の系統に入る作品は私が読んだ中では『遮光』、『迷宮』、『最後の命』そして今回書評する『悪意の手記』だ。
後者の作品の系統に属するのはこれも私が読んだ中の作品で言及すると『掏摸(スリ)』、『王国』、『去年の冬、君と別れ』、『教団X』だ。
ちなみに『教団X』に関しては本ブログで取り上げた記事が下記。
この本紹介の際には言及していなかったがこの『教団X』も先ほど言及した点とは違った点で読み手を選ぶ作品になっている。
それはこの『教団X』には中村文則という作家の政治的スタンスが作品の中で露骨に出ているからだ。
ただ僕が思うに『教団X』はそれこそ政治的スタンスの違う人が読むべき本だとは思うが……。
ともかく中村文則という作家の作品系統には二つの系統があり本作『悪意の手記』は前者の純文学よりの作品の系統 にあたるといえる。
本作の主題
本作の主題は殺人という罪を犯した青年の心の葛藤ということになるかと思うが、そのような側面よりも生きるということに実感を持てなくなった人間はどのように生きればいいか?ということに主題があるように思える。
本作の構成
本作の構成は『悪意の手記』というタイトル通り全編に渡って主人公の手記という形をとっている。
そしてこの手記は三部構成になっていてそれぞれ「手記1」、「手記2」、「手記3」となっている。
難病からの生還から生の虚無へ
この話の根幹を成すのが難病に冒さて死ぬことがほぼ確定的だった主人公が生そのものを憎悪するようになるが、奇跡的に難病が治りそれでも生そのものへの憎悪や虚無感が消えないというくだり。
ここのくだりだがどうしても治ったのにそういうのが残り続ける?という疑問が拭うことが出来なかった。
そしてそこからさらに親友を殺害してしまうという飛躍につながるというところにもどうしても無理を感じてしまった。
そのため自分的には「手記1」が最も納得感がないと思った。
死ぬことが決まっているような状況から生還出来たのなら主人公の年齢(15歳)ということからも生きることの虚無感や生そのものへの憎悪ということにはならず、むしろ生きれて良かったと思うのが普通な気がした。
翔子という存在
「手記2」では翔子という女性が登場する。この女性は主人公に一時的な安らぎをもたらす存在で個人的には本作の中で一番好きなキャラクターである。
翔子は健気という言葉が似合う女性で主人公のことをとても心配している。
主人公が何かを抱えているということに気づきながら寄り添おうとして、自殺未遂をした時も死ななくて良かったと安堵している。
正直なことを言えばこんな女性が身近にいればそれだけで幸せと感じれるのでがないかと思った。
そしてこの翔子という存在はたぶん男ならこんな女性が身近にいてほしいなという願望を具現化したような存在だろう。(ただし後半で翔子がただ健気な存在だということだけではなさそうだという事実が発覚してそれは僕的にが主人公よりも驚きガッカリ感を持ってしまった)
翔子というキャラクターは誰かに似ているなと思ったら東野圭吾の『幻夜』に出てくる有子だった。この有子も『幻夜』の主人公、水原雅也にとって一時的な安らぎを与えてくれた存在であった。
しかし『幻夜』の雅也も本作の主人公もそんな存在には背を向けてより一層暗いところに落ちてしまう。
わりとの普通の倫理感を持った人間を主人公にした意味
主人公は異常な犯罪者としては描かれていない。自分のしたことに対して罪の意識を感じながら生きている。しかし利己的な部分もあるわけでその部分が彼がその罪を認めて償わずそのままにしているという態度につながっている。
そういう人間の黒でもなく白でもない感情の揺れ動きを描くことでなぜ人を殺してはいけないか?という大変難しい問題を自分のこととして考えさせることに成功している。これがサイコパス的な人物だったらこのなぜ人を殺してはいけいないか?という問いにリアリティがなかっただろう。
まとめ
なぜ人を殺してはいけないか?人を殺した人間にとって罪を償うということはどういうことなのか?罪を犯した人間は更生することは許されないのか?そして生きることに実感を持てなくなった人間の姿や生きることに実感を持てなくなった人間はどう生きればいいか?という問いを考えることが出来る作品と言える。